序文 (河田恵昭,平成13年10月)

今から48年前に産声を上げたわが国の海岸工学講演会の話題は,長い間,波
動理論や漂砂問題,構造物の設計,海岸防災などからなり,自然科学的知識
を中心に構成されてきた.そして,話題の重心が時代とともに変わりながら
も,基礎研究,応用研究のいずれであっても,究極的に「社会に役に立つ」
成果をもたらす必要があるという合意があった.海岸工学が対象とする事業
のほとんどが公共事業に属するものであるから,ここで言う「役に立つ」と
は国民の厚生の向上に寄与するものとなる.最近では,わが国が成熟社会へ
と向かう過程で,環境の問題や景観,生態系保全など,複合的かつ長期的な
視点に立つて解決しなければならない課題が山積するようになってきた.そ
こでは,もはやこれまでの海岸工学が対象とする知識だけでは,解決できな
い局面が発生してきている.そのことを反映して,従来の海岸工学で扱って
こなかった異分野の知識が必要となり,それに伴って従来の海岸工学を核と
した新しい学問分野が構成されつつある.本論文集にもそれが反映しており,
多様な話題が取り上げられている.

このような時代背景の中にあって,ともすれば古典的な海岸工学の課題が軽
視される傾向にある.たとえば,わが国の海岸侵食は,その進行速度をます
ます加速する傾向にあるが,逆にこれに関係する論文投稿数は漸減傾向にあ
る.周知のように海岸侵食は,それが汀線後退となって顕在化するまでは,
海面下で漂砂の沖方向,沿岸方向への流出が継続しているのである.そして,
台風の高波浪などによって海岸線が劇的に後退することで初めて気がつくの
が常であった.何も海岸侵食の問題だけではない.高潮や津波にしても,守
るべき社会の構造が変わってきているのであるから,防災対策もそれに伴っ
て変わっていくはずである.ところが,わが国では問題が起こってから,そ
れに関する課題研究が激増するという悪弊がある.阪神・淡路大震災がその
好例であり,海岸工学の分野に限っても,1999年の高潮災害や2001年の有明
海の潮止め堤による水質問題が挙げられる.私たち研究者は,問題となって
から研究を始めるという姿勢を改めなければならない.何が将来問題となる
のかという豊かな想像力に基づく,時代の先取り的な研究やその先行対策を
講じることが如何に大切かを知らなければならない.これがわからないのは
現場経験に乏しく,計算機によるシミュレーションや水理実験を主体とした
研究室研究に終始し,それを論文にまとめることだけがあたかも研究業績で
あると錯覚しているからである.私たちはもっと鋭敏な感覚を培い,社会が
流れる方向とそこに必要となるものを直感的に知る努力を継続しなければな
らない.

いま,私たち海岸工学者が直面し,または将来きっと直面するであろう問題
の解決では,自然科学の知見だけでは解決できず,社会科学の成果との融合
が求められている.そのことはわが国の科学技術基本法にはっきりと指摘さ
れている.私たちはともすれば無機質に,淡々と流れる時間の中で研究に埋
没しがちである.でもその中で,人を愛し,人生を愛し,社会を愛し,国を
愛し,そして将来に希望がもてる社会づくりをしたいという使命感,そして
それを支える気概をもって研究に望みたいと思う.豊かな研究情報の洪水に
溺れずに,人としての素養を身につけて全人格的に海岸工学の課題にひたす
ら立ち向かう情熱が今こそ必要となっているのである.そのことを海岸工学
講演会に参加するすべての人たちに望みたい.それが今やこの分野で世界の
トップに位置する私たちに必要な謙虚さとさらなる発展につながるのである.

最後に,本講演会を開催するに当たり,お世話になった熊本大学の関係者,
国土交通省や熊本県の関係機関の諸氏に厚くお礼を申し上げたい.また,論
文集の刊行に当たって,論文査読者各位,論文集編集委員会および土木学会
事務局のご協力,並びに業界案内を通しての民間各社,各種法人のご支援に
対し,心より謝意を表したい.


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